「時」に留まり 「時の内」から聴き
「時の中」へと応える 息づく命への旅路
サポートチームメンバー・イエズス孝女会 小野恭世
日々、「イエスに倣い従う」内的軸足にしていきたい望みから、このタイトルにしました。
一日一日は、神の「時」の中に生き活かされ、その御手に運ばれている日々。その日々の中で起こり見る出来事を心に納め、一日の終わりに「その時の内」から味わった響きに留まり、聴き・観る時、新たな脈動が魂に刻まれるような「祈りへの種」に出逢うからです。
私は、この世に流れている「時」には計り知れないほどの奥行きがあり、とても立体的だと感じています。目で見える時間=計れる「量的な時間」(クロノス)と、目には観えない時間=計れない「質的な時間」(カイロス)の中に流れている時の内実。その「時」の訪れの中で、問われている「観る」「聴く」捉え方が、息づく命への旅路と繋がっていると私は感じています。 私たち人類は、この目に見える量的時間「クロノス」の中に過ごしながらも、目に観えない質的時間「カイロス」の内へと向かい応える「息づく命」を、神から宿され託されているように思います。
私たちは、置いていただいているこの共同の住処:「地球」上で、毎日色々な事柄や出来事に遭遇しています。 そして、その現実と現状下で時を刻みながら、喜びや悲しみ、苦しみや安らぎ、不条理な出来事に憤ったり絶望感を抱いたりと途方に暮れながらも、様々な視点や思考で過ごしています。その「時」に意味を刻み見出したり、その「時」に流されたりしながら、その感情の矛先を他者や他国に対する批判や非難として、また自身への自責や正当化などを抱きながら、この様々な感情ベクトルを自他へと向け、もがきながらも大いなる存在である神に向かって叫び・問い・願いながら過ごします。そして、人間の小さな頭や心では、計り知れないほどの現実に「この私に観える形で、聴こえる形で、教えてください。解らせてください。気づかせてください。」と懇願と渇望を委ね祈りつつ、自分の内なる声を通して語られる内在されている神の御前に黙しながら、時の内に秘められている「種」に出会い、触れていくのではないでしょうか。 また、『今、出来るコトを、出来るところまで捧げ、応える「命への仕事」が、日常に観えてくるのではないでしょうか。 『ひとつのことを 神は語り、ふたつのことを わたしは聞いた。』という詩編の如く。『これらの出来事をすべて心に納めて、思いめぐらす』聖母マリアの内的姿勢の如くに。
神によって祝福を受け、両親を通してこの世に派遣され、誕生している全ての人の命の内に宿されている「知恵と勇気」を、”置かれている所で、出来る限りの能力・知恵を使って応えていくResponsibility「責任」=response:応える+ability:能力=「命への責任」を育むと共に、洗礼の恵みの内に刻まれた三つの職(司祭職・預言職・王職)に応えながら、呼び集められた民(エクレシア:教会)の中で、常に神と人へと「心」を「回し」続ける、息づく命への旅路を刻みながら「神の時」に活かされる者として・・・。