共同宣教司牧サポートチーム神奈川 2024. 6. 25 発行
出会い・訪れ
べリス・メルセス宣教修道女会 西岡まゆみ
ある日外出から帰宅すると、受付からの伝言メモが入っていました。Aさんからのものでした。
名前は記憶にありましたが、顔を思い出すことができませんでした。電話をかけると受話器の向こうから「自分の事を覚えていますか」と聞かれ、私は「会えば思い出すでしょう」と、後日会う約束をしました。出会ったのは20年前でした。 約束の日にAさんは現われ、20年前に出会い、今日、修道院に訪ねてくるまでの経緯と、訪ねたい理由を一気に話し始められたのです。 「どなたでも、自由にお入りください」と書かれている教会の掲示板の前に立つのだけれど、なかなか中に入ることができないで立ち止まっていた時、「中に入ってみませんか」と私に声をかけられた。Aさんの人生はそこから変わり始めた、と言われたのです。 学校に行けなくて毎日海岸まで散歩して、その途中で、教会の掲示板にある「ご自由にお入りください」と招かれている文字を読んでも、中に入ることができなかったAさんは、私のかけたひと言、「中に入ってみませんか」という言葉と、聖堂を案内して、話をただ聴くだけの応対から人生が変わり始めた。「学校に行けない、行きたいけれど・・」と立ち止まっていたAさんが、あの時、一歩前に踏み出し、それから20年経ち、私に感謝したくて再び教会に行き、所在を調べ連絡してきた経緯を語られました。ここでも私はただAさんの語る話を聴くだけでした。 「私は何もしていませんよ」と話しました。私が声をかけ、そこからAさんがどのように考え行動するか、Aさんが決めることなのです。Aさんは「それだけで良かったのです」と答えてくれました。あれから、自分らしく生きるために過ごした20年の歳月を経て、今は会社を立ち上げ、自立して充実した生活を営んでいると語って行かれました。
一人ひとりが教会ですが、教会という建物の目に見えない境界線はなかなか越えることが難しいのだと思います。境界線がないと思っているのは、中にいる私たちなのではないか、私自身の中に見えない境界線をつくっているのでは、と振り返っています。 日常生活の中で、苦しんでいる方たち、悲しんでいる方たちが、境界線を越えて人間として自分を認め、受け入れ、わかってもらえる場と相手が必要なのだと思います。教会共同体が「あたたかく迎え入れ、話を聴いて共にいる」ことを大切にできるとしたら、そこにキリストは共にいて希望を与えてくださるのだと、先ず自分の中の境界線をなくし、声をかけ、相手を気遣(ケア)うことをしたいと願っています。 教皇フランシスコの「世界広報の日」のメッセージの中に このように書かれています。 「聴くとは本質的に愛の次元なのです。交わりにおいて、他者に捧げるべき第一の奉仕の技はその声に耳を傾けること、教会の中で互いに耳を傾けること、互いに耳を傾け合うことはとても大切です。それは私たちが互いに差し出しうる最も豊かな贈り物です。司牧活動で最も重要な仕事は『耳での使徒職』です。話すよりも聴くことです。人々に耳を傾けることに自分の時間の一部を無償で差し出すことは最初の愛の行為です。」 このように歩めたらと・・。 「人は誰も 心から自分の事を 聴いてほしいものではないでしょうか。」