共同宣教司牧ニュース38号

助祭叙階おめでとうございます

2024年4月21日、司教座聖堂で梅村司教様の司式により3名の助祭が誕生しました。
それぞれの方に個性溢れる『助祭叙階の恵みを受けて』の文章をいただきました。

ルカ 枇杷晃平

横浜教区助祭のルカ・枇杷(びわ)晃平(こうへい)と申します。さる4月21日、復活節第4主日に山手教会にて助祭叙階のお恵みをいただきました。これまでの長きにわたる
皆様のお祈りとご支援に心から感謝申し上げます。
様々な場所でお会いした皆様、神学生のために祈りを捧げてくださった皆様のお力添えによって力づけられてきたこれまでの神学生生活であったと思っております。
これまでの司祭召命の道、神学生生活のあゆみの中で、私は自分の弱さや限界に直面し、時として悩み、迷い続けてきました。
長い識別の時をへて、助祭叙階を自分の意志によって希望するようになってからも、私のような者が本当に叙階の恵みを受けてよいのだろうか、という問いは変わらず、叙階式の直前まで私の中で繰り返されていました。
しかし叙階式の終わりにご挨拶をさせていただいたとき、叙階祝いのために駆けつけてくださった出身教会や神学生生活の中でご縁をいただいた教会の皆さんの、喜びにあふれた顔が私の目に飛び込んできました。その時、この叙階の恵みは私のためではなく、神様によって呼び集められた人々の集まり、すなわち教会全体のためのものであること、私の使命はその教会のために自分を道具として捧げることなのだということを強く思わされました。

叙階を受けて1ヶ月ほど経ちましたが、ミサや共同体の集いの中などで、「こんな自分ですが、父である神様、イエス様、どうか私とともにいてください。弱い私のために聖霊を送ってください」と絶えず祈りながら日々助祭としての務めを果たさせていただいております。
助祭の務めは共同体への奉仕の務めであると言われます。私も初心忘るべからず、という言葉を常に頭に置きながらその奉仕の務めに献身したいと考えております。

私は今、東京の練馬区にある日本カトリック神学院で司祭になるための養成を受けておりますが、今年がその最後の1年となります。私にとっては司祭叙階の最後の識別の期間となるこの1年を終えると神学院は卒業ということになり、教区司祭として叙階されるか否かの最後の判断がなされることになります。
私の司祭叙階への歩みのためにも引き続きお祈りを賜れれば幸いです。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

ヨセフ・トラン ヴァン グェップ

長い養成と学び、祈りの時を経て、4月21日にカテドラル山手教会において、梅村司教様より助祭叙階の秘跡を授けていただきました。これまで、皆様にお祈りいただき、心より感謝申しあげます。
 助祭叙階は私にとって、神様が与えてくださった尊い贈り物であると感じています。それは 「奉仕」という聖職です。
助祭の奉仕の任務に関する文書を研究すると、聖書、典礼、教理、教会法のすべてに、奉仕するという助祭職の固有の使命、つまり神のことばと祭壇への奉仕、そして愛の奉仕について強調しています。
 この助祭職は、ご自分の命を捧げるほどに仕えるものとなったイエス・キリストの使命に由来しています。助祭職とは、キリストの開かれた愛の心であり、人々に向けて伸ばされた奉仕の腕ではないでしょうか。原文のギリシャ語「Diakonosディアコノス」は、助祭を奉仕する者として表しています。したがって、奉仕は助祭の本質であると言えます。
 助祭叙階式は、善き牧者の主日に行われることに、深い意味をもっていると思います。善き牧者の主日に関する神の言葉は、次のように示しています。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10・11) イエスはご自分の、神としての栄光を捨てて、人間として受肉し、人々のなかで奉仕の模範を示しました。
 イエス・キリストの模範にならい、助祭も謙虚に犠牲を捧げて、人々に仕えなければなりません。羊飼いのイメージは聖書の中だけで語られるものでなく、今日の教会でも同様に魅力を持つものです。  神が旧約の民に約束したのは、「わたしはあなたたちに、心にかなう牧者たちを与える」(エレミヤ3・15)ということです。しかし、この約束は、現在でも神の新しい民である教会において、日々経験するものです。教会は、神が約束してくださった至高の羊飼いが、イエスであることを知っています。
 助祭職は、司祭のようにミサを捧げることはできませんが、司教様、司祭団のもとで、将来の司祭職に向けて学び、経験を積むことを通して、準備の時にもなります。愛をもって他者に奉仕することは、神への奉仕であると受け留めるなら、この奉仕は本当に素晴らしいものになります。 「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」(コロサイ3・23)。

 神は私に「聖職」の恵みを与えてくださいましたが、私は常に自分自身の無力さ、限界、弱さを認識しています。ですから、私には神の恵みと、皆さんの祈り、そしてご支援が必要です。そのおかげで、私は諦めることなく、神と教会から託された使命に、勇敢に取り組む力を得ることができるでしょう。
 最後に、マザー・テレサの言葉を借りて、私自身の思いを伝えたいと思います。「手を差し伸べて奉仕し、心を捧げ、人々を愛してください。それによって、助祭は常に神聖な奉仕の要求に忠実であり、神の良き僕となります。」

ペトロ・ホアン ドゥック ナン

皆様、日頃から大変お世話になっております。
信仰の宣教修道会・ベトナム管区のペトロ・ホアン ドゥック ナンと申します。
私は、梅村司教様のご配慮により2015年7月30日にドミニコ・タン ホアン フィー(現在は司祭)とヨセフ・トラン ヴァン グェップ(現在は助祭)と共に神学生として来日しました。日本語研修の期間を経た後、神学校で司祭になるための養成を現在に至るまで受けて参りました。来日してそろそろ10年目になります。今まで私のためにお祈りとご支援をくださった方々に心から感謝したいと思います。
ご存知の通り、この度、横浜司教座聖堂にてルカ・枇杷 晃平とヨセフ・トラン ヴァン グェップと私は助祭叙階のお恵みを頂きました。皆様の支えなしにはこの日を迎えることはできなかったと思います。本当に喜びが満ち溢れた素晴らしい叙階式でした。神様から大きな恵みと祝福をいただき、そして多くの方にお祝いをしていただきました。皆様がともに喜んでくださったことが、とても嬉しかったです。
助祭叙階の儀のなかで自分の心に残ったことを一つ分かち合いたいと思います。それは「キリストの福音を受けなさい。あなたはこの福音を告げる者となりました。読んだことを信じ、信じたことを教え、教えたことを実行するようにしてください。」という、福音書授与の儀の際の司教様のことばです。私は助祭叙階を受け、特別な仕方で「福音を告げる者」となりましたが、どのようにして、またどこまで「福音を告げる者」となっていくことができるかはこれからの自分の生き方によると思っています。神の助けがなければ、弱く「まだ若者にすぎない」私はこの使命を決して果たすことができないと思っています。助祭叙階の恵みを受けて、自分の人生の中にいつも共にいてくださる神の働きにより強く信頼し、皆様に支えられながら努力することによって、豊かな実りを結ぶことができると私は信じています。
「福音を告げる」使命を果たすにあたっては、司教を中心としてすべての神の民が、それぞれの役務の特性と段階に応じて、協力し責任を分かち合わなければなりません(x.NICE-1)。ともに歩む教会をめざして信徒の皆様と一緒に福音宣教に出かけていきたいと思います。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

Recent articles

共同宣教司牧ニュース36号

ドミニコ タン ホアン フイ師助祭叙階おめでとうございます 2022年5月8日助祭に叙階されたフイ師から原稿をいただきました。(文中の年は2022年12月現在で …

共同宣教司牧ニュース35号

祝 司祭叙階 2022年3月21日 アウグスティヌス 水上健次神父様 梅村司教様のご挨拶(要旨):水上新司祭は50歳で神学校に入学しました。大変なご苦労があった …

共同宣教司牧ニュース 34号

Our Stories コロナ以降、お届けしている「Our Stories」。私たちが「信仰者として、コロナをとおして気付いたこと、変わったこと」を特集していま …

共同宣教司牧ニュース 33号

祝叙階 昨年に続き、横浜教区に司祭2名と助祭1名が誕生しました。コロナ2年目で、叙階された師をはじめ、準備を担当された地区のご苦労はいかばかりであったかと拝察い …